「静中の動、動中の静(せいちゅうのどう、どうちゅうのせい)」。
この言葉は、古くから中国武術に伝わる思想のひとつです。
特定の人物の名言というより、太極拳や形意拳、八卦掌など、
身体の内側の流れや“気”の動きを重視する武術で、繰り返し語られてきた表現です。
また、禅や道教の哲学と深く結びついており、動と静、陰と陽の調和を象徴する言葉でもあります。
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静かな型の中に、たしかに動いているもの
この言葉に初めて触れたのは、詠春拳を学び始めてからしばらく経った頃。
それまで「動」と「静」は対極にあるものだと思っていた私にとって、“同時に存在する”という発想はとても新鮮でした。
たとえば、小念頭。
外から見ると、静かでゆったりとした型に見えるけれど、実際には呼吸、意識、重心、細やかな筋肉の働きが、
内側で常に動いています。
静けさの中にある、確かな流れ。
それに気づいたとき、小念頭がより“深い時間”になりました。
動いているときこそ、心は静かに
一方で、木人椿やパートナーとのドリル練習のように、
身体が大きく動くときほど、私は“心の静けさ”を意識するようにしています。
「相手の動きに反応しすぎて、自分の型を失う」
そんなことは、最初の頃によくありました。
でも、どんなに素早く動いていても、
その中心に“静”を保っていられると、身体がぶれない。
技も、余計な力が抜けてスムーズになる。
まずはどんな時も型を思い出す、型通りにするだけ。
まだ私はその段階です。
動いている最中でも、自分の内側にある静けさに立ち返ること。
それが、いまの私にとっての「動中の静」です。
稽古を通して見えてくる、“流れの中の静寂”
「静中の動、動中の静」は、稽古だけでなく、日々の暮らしにも重なります。
忙しくしているときこそ、呼吸を深く整える。
動かずじっとしているときも、思考や感覚は働き続けている。
そうした微細な変化や流れに気づけるようになったのは、
やはり型を繰り返してきた時間のおかげだと思います。
静と動は、切り離せない一つのもの
この言葉に出会った頃は、「静けさの中にも動きがある」と言われても、なんとなくのイメージしか持てませんでした。
でも今では、稽古の中で、そして日常のちょっとした所作の中で、
「ああ、いま自分の中に静と動が同時にある」と感じる瞬間がほんの少しあります。
きっとこの感覚は、これからもっと深まっていくのでしょう。
そのたびに、またこの言葉が思い出されるのだと思います。
暮らしの中の“静と動”にも、耳をすませてみる
この言葉は、技術や武術に限らず、
誰の中にもある「緊張と緩和」 「動きと静けさ」を見つめるヒントになる気がします。
たとえば、深呼吸するとき。
お気に入りの器でお茶をいれるとき。
子どもが眠る寝顔を見ているとき。
そうした日々のなかの“静と動”に、そっと耳をすませてみる。
そしてまた、自分自身と向き合う時間の中で、この言葉を思い出していくのだと思います。
